🧐渋沢栄一について🧮

「日本資本主義の父」と称され、令和 6 ( 2024 ) より新 一万円札の顔となる 渋沢栄一氏について勉強してみました。

 

天保11 (1840316 ) 生誕 - 昭和6 (19311111 ) 死没( 享年91)

 

武蔵国榛沢郡血洗島村( 現、埼玉県 深谷市 血洗島 ) に生まれる。5歳の頃より、父 渋沢市郎右衛門元助から読書を授けられ、7歳で従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や日本外史を学ぶ。

 

剣術は、大川平兵衛より神道無念流を学ぶ。後に、北辰一刀流の千葉栄次郎( 千葉周作の次男)に入門し剣術修行。

 

参考: ( この道場「玄武館」に、昨年12月に訪問させて頂きました。20191219日付の私のブログをもし宜しかったら読んで下さいね。

あの坂本龍馬もこの道場で剣を学びました。

また、2020224日付の愛刀「文龍」についてのブログも読んで頂けると嬉しいです。どうぞ、宜しくお願い申し上げます。)

 

渋沢は19歳で結婚、その後紆余曲折の後、一橋慶喜に仕える。慶喜が将軍となったのは慶応2(1866)。渋沢は翌1867年、パリで行なわれた万国博覧会に将軍の名代として出席した慶喜の異母弟、徳川昭武( 後の水戸徳川家11代当主 ) の随員としてフランスへ渡航した。

 

パリ万博を視察しただけでなく、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行した。

この時、先進的な産業、軍備、社会を実見し感銘を受ける。

通訳として同行していたシーボルトの長男アレクサンダーから語学を習い、帰国後も交友は続き、後に明治政府に勤めた渋沢に対して日本赤十字社設立など度々協力を得ている。

 

18681216日に帰国し、明治新政府の元、株式会社制度の実践、商工会議所設立、その後大蔵省に入り、国立銀行条例制定や度量衡の制定に携わった。

 

退官後、第一国立銀行( 後の第一勧業銀行、現、みずほ銀行)の頭取に就任、実業界に身を置き、東京瓦斯、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント、帝国ホテル、秩父鉄道、東京証券取引所、麒麟麦酒、サッポロビール、東洋紡績、大日本製糖、明治製糖、などなど、500以上の会社設立に関わった。

 

1887年には、渋沢を慕う経営者や管理職が集まる「龍門社」が組織され、昭和初期には会員数が数千名にも登った。

 

彼は社会活動にも熱心で、東京慈恵会、日本赤十字社、聖路加国際病院、YMCAなどの代表となった。

 

教育にも力を入れ、現一橋大学、現東京経済大学、国士舘大学、同志社大学、日本女子大学、東京女子大学などの設立に協力した。

 

最後に、彼が現在に至っても尚、多くの人々から慕われ、尊敬され続けている理由は、彼の「道徳経済合一説」という理論にある。

 

倫理と利益の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身もそれに従った。

 

彼の著書「論語と算盤」にはその理念が、

 

「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。

正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ。」

 

と書かれている。

( 概要: ja.m.wikipedia より)

 

以上、渋谷栄一氏についてごく僅かな情報をまとめてみましたが、彼はこれらの他にも幅広い分野に於いて日本の発展の為に尽くし貢献された「日本資本主義の父」と呼ばれるに相応しい偉大なる人物です。

 

渋沢翁のイメージはこちらをクリックして下さいね。

 

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